浩子の部屋

人が死ぬということ

家族葬を終えて、いろんな方からご弔意をいただき、また、ご心配をおかけしております。ありがとうございます。「お淋しいですね。お疲れになりましたでしょう。」と言っていただきますが、意外と普段どおりに元気にしております。ご安心ください。無事に母を見送ることができた「安堵感」のほうがあり、これから時間をかけて、ゆっくりと母の想い出に浸ろうと思っております。

亡き母が、最期に、自分の身を挺してしてくれた大切なこと・・・
それは、曾孫6人には、「死」というものがどういうことかを、葬儀という形で教えてくれました。人が死ぬということは、動かない人、話さない人、目が開かない人になるということであり、身体が冷たくなってしまうこと。孫達には、死体というものを見るのも触れるのも初めてのことです。

火葬場も連れて行き、炉に入れるのも不思議な感覚だと思います。
「バアバ、火でやいて、あつくないの?」
と、コウキ君。素朴な疑問です。
「死んだら、魂が抜けているから、痛くも熱くもないから、大丈夫なんよ。」
「えっ、バアバ、『たましい』って何?」
「魂って、光の玉ようなもので、形の無い、目にも見えないものやけど、生きている人はみんな、ここ(胸)に持ってるんよ。コウちゃんも、ここ(胸)にず~っとあるんよ。」
わかったような、わからないような顔をしていましたが、それ以上は尋ねてきませんでした。

一番小さな孫ココエが、「バアバ、ちいばあちゃん死んだから、泣いてるの?」と、はっきりと尋ねてきました。「死」は悲しいものだと、冷静に理解したようです。もうひとりの小さな孫マオは、会葬お礼の時から、私やママが泣いていたので、大声で泣き叫び出しました。皆が大きな悲しみにくれているのを、雰囲気で感じ取ってしまったようです。マオは、普通の子より眼が少し悪い分、人の気持ちを肌で感じるようなのです。もともと、とても気持ちの優しい子ですから。

ピアノの森山先生が葬儀場に来られた時、ココエが、一番に先生に伝えたそうです。
「せんせ、ちいばあちゃん、しんだ。」
他のお兄ちゃん達は、
「せんせい、何でここに来たん???」
みたいな態度で、事の次第がよくわかっていない感じだったようです。年齢よりも、男の子と女の子の冷静な判断力の違いが、こんなにもあるのかと思いました。男の子は、運動能力や瞬発力などの身体能力には優れていますが、社会性や協調性の発育はやや遅いようです。

どちらにしろ、孫達6人にとっては、衝撃的な事であったこと思います。一生脳裏に焼き付いていることでしょうし、人間は「死ぬんだ」ということも実感したことでしょう。大切な経験であり、体験教育にもなりました。亡き母は、「死ぬ時」まで無駄にせず、しっかり時期を選んで旅立ったのだと実感しています。

苦しんでいないので、亡母の顔は安らかでした。皮膚も柔らかで、死化粧をしてくださった方も、きれいにしてくださいました。その方に、火葬する時に入れ歯を口に入れておくと、レジン(プラスチック)が溶けて、喉仏が引っ付いたりして、うまく喉仏の骨上げができないと聞きました。だから、口の中には、綿をいっぱいつめて、口元にシワが寄らないように仕上げてくださいました。

私の普段使っている口紅を塗っていただいたのですが、88歳の亡母にはちょっと血色が良過ぎる感じで、あわてて茶系の色を足していただきました。やせ細っていたので、いつもの表情とは少し違っていましたが、きれいになった亡母の最期の姿は、今も瞼に焼き付いています。旅立つ時の、たくさんの花や胡蝶蘭に包まれた亡母の顔は、とても美しく見えました。

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「見送る」ことは、次世代の人間にたくさんの宝物を残していくことでもある。
「死」は悲しいことだけではなく、この世の「生」をより強く感じさせるものである。
「生きた」証しは、洗練された想い出となって、皆の心の奥に密かに棲んでいる。
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身を離れた魂は、自由になって、晴れやかに空を舞っていることでしょう!!

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