浩子の部屋

没後80年記念 佐伯祐三展

朝、大阪市立美術館の「佐伯祐三展」が本日最終日であることを突然思い出しました。孫たちを動物園で遊ばせながら、娘たちと交代で作品を見ようと思い、7人で出かけました。
地下鉄動物園前で降り、かの有名なジャンジャン横丁を通りぬけて、動物園へ。
孫と娘夫婦は動物園に、私と主人は先に美術館に行くことになりました。


そんなに混んではいませんでしたが、入るやいなやプログラムを見て、作品の多さにビックリ!!
なんと佐伯祐三の作品だけでも110点、友人や先輩画家の作品15点という凄さです。
以前にもここで佐伯祐三展がありましたが、その時には15点ほどしかありませんでした。今回の異例の数に、佐伯祐三の作品に、こんなにも日本の中で感心を持つ方がいらっしゃるのだと思いました。
佐伯祐三さんは、私達の住むこの中津にある浄土真宗本願寺派光徳寺住職の次男として生まれ、北野中学校(北野高校)から、東京美術学校(東京芸術大学)を卒業して、大学在学中に、米子婦人と結婚し彌智子さん(娘)が生まれました。パリへ留学して、また一時帰国し、再びパリで絵を描きつづけ、30才で亡くなられました。娘さんも、彼の死後2週間ほどで、病気で亡くなっています。
佐伯祐三の作品を見ていると、彼の孤独と、自分の内にあるものとの葛藤や辛苦が感じられます。何かに八つ当たりするような荒々しい筆のタッチであったり、背景の暗雲や絵画全体に流れる色彩の雰囲気から、ああでもないこうでもないと考えて苦悩している様子がひしひしと伝わってきます。
若さゆえ、激しく求め、激しく自問自答し、激しくもがき苦しんでいる心が画面にあらわれているようでした。
ただ、今まで知っている作品と違って見えたのが、帰国時代(1926〜27年)の「下落合風景」と「肥後橋風景」でした。
一時的にパリから帰国した時に、日本の風景をあらためて見直ししたような感じであり、外国人が初めて日本を見るような目線で描かれていました。私自身が懐かしい時代の風景であることもあいまって、遠い昔の記憶を呼び起させられたのかもしれませんが、祐三が生まれ育った背景やその当時の人との関わりや人の温もりを、絵の中に感じました。
どこまでも風景が続いてひろがっている・・・未来が繋がっている・・・という感じを受けたのです。色彩的にも、苦悩の時代より、ずっと明るく描かれ、きっと精神的には安定していた時期ではないかと思われます。
亡くなる1〜2年前のパリの作品は、パリを中心とした建物やポスターの絵で、筆のタッチがはっきりとした、有名な絵が多いです。自分の生命力のすべてをささげて書き上げた数百点の作品は、不要な物をすべて取りはずした見事な構図と、書の「狂草体」と似たような一本一本の黒い線のおりなす、視点をしぼった世界です。見る人を絵の中にまで吸い寄せてしまうような、魂の鼓動を感じました。
そして、絵の中に、何か煙くさいようなホコリっぽいような「匂い」を感じたのは私だけでしょうか。
娘達も昼御飯のあと、孫の守りを交代して見てきたのですが、はじめて佐伯祐三の絵を見た、次女の感想は、
「なんかグレーの暗い感じの絵ばっかりやったわぁ〜。ずっと見てたら、なんか苦しいなってきて・・・。ズボンのゴムがきつい(妊娠9ヶ月です)から、よけいしめつけられるような感じで・・・ほんま、しんどかったわぁ〜!」
「それ、ゴムがお腹にくい込んできつかっただけちゃうの?」
と、みんなが大笑い。(へへへ)
帰り際には、動物園で、アシカやゾウやチンパンジーを見ました。木の上に登っている子供のチンパンジーを見ていたら、何かおしりに手をやって・・・???
「わあ〜ぁ、ウンコ飛んできたァ〜、キャ〜ァ!!」
本日、一・見・落・着・・・(一件落着)?!

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